今から 五年前のこと . . . 今でも 何故か 悲しい . . .

その日の前日 H君はいつものように お店にやって来た。 いつもと同じように 冷静に礼儀正しくカット椅子に座った。 ただ違っていたのはいつもより 少しだけ饒舌だった。  後から 考えて この少しの違いに気づかなかった私はとても とても後悔して、 自分の能天気さにほんとうに愕然としたのだ。
山が好き、 そのうち山に行きたい、 海外の山にも行ってみたい。 そんなことを以前に話した事があった。 
彼のことを 私は 「S君」 と 名字で呼んでいた。 なぜかその日 彼は 「僕はH って云うんですが〜 」 と 自分の名前を告げた。 そして 「僕は子供の頃から恐怖症で 一人で出歩くことができなかったんです。 でもね、 このお店だけはぜんぜん怖くなかったんです、平気でした。」 と 云う彼に、  
私は 「あら そうだったの? そんなふうに見えなかったね〜 」 と いうと H君は 「でも もう大丈夫です、何処へでも行けます、 怖くなくなりました。」
私は 「あ〜 そうー  それは良かったね〜」  と なんの疑いもなく 心から自分の事の様に喜んで、 「どうも ありがとう!」 と いつものように彼を見送った。 それが 最後の彼の姿とも知らずに。

名を告げて 君は帰らず 朱夏の海

2,3週間たって 彼の近所の青年がヘアーカットに来た、「おばさん、知ってるでしょう? S君が亡くなったこと」 私は呆然とした、そんなはずはない、 そんなバカな〜  何週間も納得出来ない日が続いた、 そして 悲しかった、「結局 私はなんの役にも立たなかったんじゃない! 此処だけが安心して一人で来られる所だったと告げられたのに. . . . .」  こんなことが 二度と有ってはいけない、 と 思うまでにも 時間がかかった。

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